あきはだいじょうぶ『こんとあき』
一つ前の記事で『無彩限のファントム・ワールド』第6話を見て、喋るぬいぐるみと女の子という組み合わせから、絵本『こんとあき』を思い出しました。αが記事にまとめた演出パターンで読み解くと『こんとあき』の隠されたテーマが分かると思いますので、まとめます。
(絵本のストーリーの裏側を考察するので、そういったものは必要ないという方、絵本未読の方は読まない方がいいと思います。)
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考察
最初に結論から言うと、『こんとあき』は子どもが精神的に自立するまでの通過儀礼の話だと思います。生きているぬいぐるみ「こん」の正体は、女の子「あき」の内面ではないでしょうか。あきがこうありたいと願う、少し前を行く理想の姿です。
さきゅうまちに住むおばあちゃんにこんを直してもらうため、二人は電車で出かけます。道中では様々な困難に遭遇しますが、こんがリードして解決していきます。こんが不安を肩代わりしてくれることで、あきは前進することができます。こんはあきに何度も「だいじょうぶ」と語りかけますが、これはこんを介して、あきが自分自身に言い聞かせているのだと思います。
その一方で、物語の冒頭からこんが一人で出かけると言ったり、お弁当を買いに行って戻らなかったり、別れの気配が何度も漂います。こんに頼りきりのままではいけないと、あきは薄々感じているのでしょう。
さきゅうえきにたどり着いた時、あきは砂丘を見に行きたいと言います。こんの後ろに隠れていたあきに、自主性が芽生えつつあります。
その後、こんは犬に連れ去られて埋められ、あきがぼろぼろになったこんを掘り出して背負い、おばあちゃんの家に向かいます。ここで二人の関係が逆転し、あきがこんをリードします。あきが「こん、だいじょうぶ?」と聞くとこんは小声でだいじょうぶと言います。しかしその後は何を聞いてもだいじょうぶと繰り返すだけで、会話が成立しません。これは、こんのことを心配しなくても大丈夫でも、こんが付いてるから大丈夫でもなく、こんがいなくてもあきは大丈夫という意味に移り変わっていったのだと思います。あきはこんに頼らなくてもやっていける力があると自覚し、自信が湧いてきている。
おばあちゃんの家に着いて、早速こんを直してもらいます。あきが生まれる前にこんが作られたので、あきはこんがどのようにして生まれたのか知りません。ここでおばあちゃんが直すのを見て、あきはこんが作り物であることをはっきりと認識します。
おばあちゃんがお風呂に入れようとすると、こんは初めて「いやだ」と抵抗します。なぜかと言えば、これで生きているぬいぐるみとしては死に、ただのぬいぐるみとして生まれ変わるからです。いよいよあきはこんと別れて自立しなければならない、その不安の最後の抵抗と言えます。あきには踏ん切りがつかなかったので、おばあちゃんが無理矢理お風呂に入れて、こんを消してあきと同化させるのです。二人の"母"であるおばあちゃんなら、そのような芸当も可能でしょう。
お風呂に入ったこんが「すなのなかより、ずうーっと いい」というのは、砂丘での唐突な別れでなくて良かった、別れの前にこんに力を証明できたというあきの安堵の気持ちかもしれません。
最後のページ「できたてのように きれいな きつね」になったこんは、こちらを見るだけでもう喋りません。それでも「よかった!」とあるのは、こんが直ったからだけでなく、あきがこんに頼らずに自力で生きる事をスタートできたからだと思います。
絵の進行方向について言えば、文字が横書きで右側のページをめくることから、右に進んでいきます。左端にあきのベビーベッドがあり、右端にこんの故郷であるおばあちゃんの家があります。右側がプラス(成長)であり、こんは常に右を向き、あきをリードしていきます。そして最後のページでは体を左に向け、これ以上右側へのリードは必要ない、あきのお守りの役目を終えたことを表します。
まとめ
ストーリーは女の子とぬいぐるみの小さな冒険旅行であり、絵本として子どもに他者を思いやる大切さを伝えることができます。しかし繰り返される別れや砂丘での会話、こんの入浴拒否など、何か違和感を感じるシーンが多いのです。それらの意味を考え整合していくと、上記のように解釈できると思います。
可愛い絵とは裏腹に、精神的な拠り所との訣別と自立の覚悟というハードなテーマが隠されており、それはきっと対象年齢の子どもには分からないでしょう。ある程度大人になって読むとはっとする、素晴らしい絵本です。
文章 Ω
引用
京アニ演出の見本市『無彩限のファントム・ワールド 第6話』絵コンテ:山田尚子 演出:小川太一
2016年の京都アニメーション作品『無彩限のファントムワールド』の『第6話 久瑠美とぬいぐるみ王国』から演出パターンを抽出し、その他の作品も交えながら整理してみたいと思います。
本作の絵コンテは山田尚子さん、タッグを組む演出は『たまこラブストーリー』などと同様に小川太一さんです。見ていただければ分かるのですが、京アニ演出というか山田演出の見本市*1*2と言っても過言ではない回となっており、題材として取り上げずにはいられませんでした。
お話を要約すると「熊枕久瑠美という少女が鏡像世界でファントム退治を経験する事を通して『前に進む成長』を描いた作品」です。テーマ的にも『たまこラブストーリー』や『聲の形』と共有する要素があり、山田尚子さんのファンであれば未視聴の方でもこの話数だけ取り出して見ても十分に楽しめる内容となっております。*3
というわけで演出を見ていきましょう。
進行方向の演出
山田尚子さんの演出を読み解くには、まず先に進行方向を見つける事です。*4
この第6話に限って言えば、現実世界は左向きの進行で、鏡像世界は右向きの進行です。『リズと青い鳥』のデカルコマニー演出として現実と絵本の中の世界は左右の進行方向が逆転していたのと同じ構造です。
『リズと青い鳥』では本作とは違って現実が右向きの進行方向でした。進行方向が分かればお話が進んでいるのか停滞しているのか、ピンチなのかチャンスなのか、プラスの行為なのかマイナスの状況なのか等、ストーリーや演出を読み解くヒントになります。*5
進行方向演出は左右の移動が主ですが、場面転換やピンチの時など話が大きく動く際は正面や奥行き、上下を使ったカットがでてきます。
進行方向演出について山田尚子さんはお約束としてキッチリやっている事が多い印象を持っています。京アニ全体できっちり守って作っているかと言われると、監督や各話の絵コンテ・演出担当の考え方によって違うようです。*6
ゴールの提示演出
親切にもお話の序盤には、キャラクターが達成すべき条件やゴールが提示されるのが通例です。
久瑠美は、信号を渡りきって晴彦達の所へ行く = お兄さんお姉さんと一緒にファントムと戦えるようになる。という事を暗示しています。
しかし足を踏み外して水たまりの中の世界に落ちてしまいました。渡りきれる条件に達していなかったのでしょう。 *7
鏡像世界ではサーモン将軍との戦いが待っていました。ファントムと戦えるようになる為の予行演習といった所でしょうか。鏡像というのは写し鏡という事なので、鏡像世界で行った事が現実に影響を与えます。
他の作品でも序盤にゴール設定をしっかり描いています。
序盤にゴールを表現するのは、視聴者に目的地を認識させて、目の前のストーリーの意味を理解する補助線にできるからではないでしょうか。*8
必ずしも主題に対してのゴールの提示だけがある訳ではなく、例えば「たまこラブストーリー」ではキャラクターそれぞれにゴールが設定され、最後に全員が怒涛のゴールラッシュを決めカタルシスがあります。
生まれ変わりの演出
ストーリーを通してキャラクターの成長を促す山田尚子さんの特徴といえば「生まれ変わり」演出ではないでしょうか。この生まれ変わりを演出する為に、キャラクターを水中に落とすというのがやり方のようです。
後述する倒れる方向の演出との組み合わせになりますが、進行方向と逆の方向に仰向けで倒します。その後どこかで起き上がらせる。これは率直にいうとキャラクターの「精神的な死」と「新しい自分への生まれ変わり」を表現しているのでしょう。
下の2作品は、胎児のような格好です。このあと将也は人を頼れるように、日和は郁也と出会い、生きる目標が変化します。水に落ちたたまこも、この後商店街を疾走するときによく目が見えていません。まるで生まれたての赤ん坊のようでした。
水中は母親や海のメタファーでしょう。生命が誕生する母親のお腹の中は羊水で満たされていますし、海は生物が発祥した母なる場所、しかし人間は呼吸ができないため、下手すれば死んでしまう場所でもあります。
監督は違いますが、『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のラストにヴァイオレットが海に飛び込み、浅瀬に歩いていくシーンもこのパターンの発展型とも言えます。機械じかけの様な少女が感情豊富な大人の女性へ、生物の進化になぞらえてストーリー全体を要約した壮大な演出でしたね。
という訳で本作の久瑠美が水たまりに落ちるのは京アニ的には必然だったのではないでしょうか。
倒れる方向の演出
進行方向や生まれ変わりの類型ですが、倒れる方向に意味を持つ事も多いです。
山田尚子さんが演出家としての頭角を現した『白い闇』も似たようなカットがでてきます。出産と同時に死んでしまう渚との仲睦まじい思い出が走馬灯のようにフラッシュバックする名シーンです。
徐々に意識が朦朧としていく渚ですが、頭は右側にレイアウトされていて、とうとう最後の1カットだけ頭が左側になっているシーンが挿入されます。明らかに狙って入れていると思いますので、やはり仰向け方向にはルールがありそうです。
山田監督作品では無いですが、例えば『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のギルベルト少佐の倒れ方は特徴的でした。
この話数はお城への進行が左向きで、右向きに頭が来ているので瀕死状態と思われますが、くまのアルブレヒトと同様に体が起こされており、完全に仰向けに描かれているカットはありません。劇場版を待つまでもなく少佐は死んでいないと確信できるレイアウトだと言えます。
エイダンはヴァイオレットちゃんに看取られながら亡くなってしまいました。
安全地帯の演出
キャラクターがストーリー上どうしようもなくなったときに心を休ませる場所、緊急避難先として安全地帯が設けられています。また食べ物を食べたりお茶を飲んだりして体力の回復も兼ねてますね。
『リズ』の生物学室はクライマックスで希美が逃げ込む事にもなりますが、みぞれが大好きのハグをする事でさらにマイナス方向(←)へ逃げ場なく追い詰め、ショック療法で成長を促しているとも解釈できます。
このレイアウトは唯を他のメンバーが囲む形でとても安定的です。
ところで『けいおん!』は他の作品と違って安全地帯(部室)でのシーンが多く描かれています。『けいおん!』のお話は成長を描くというよりは、主に女子高生の青春・学園生活の楽しさを中心に描いているためあまり敵が存在しないからでしょうか。成長を促すはずの大人であるさわこ先生も友達みたいですよね。
安全性を確保する場所は自分を脅かす敵がいない場所。友人や理解のある大人が居たり、飲み物を食べたり飲んだりして落ち着いて回復する場所というのが共通した要素のようです。
踵を返す・振り向き・切り返しの演出
キャラクターがマイナス方向からプラス方向へと反対の方向へ体を向ける演出です。本作から『決意表明』『物語の終了』2箇所を解説します。
アルブレヒトに頼り切りで敵に背を向けているという危険な状態から。顔を反転し進行方向に向けて戦う決意を見せます。
こちらのパターンは、物語のゴールを達成 = 進行方向の左端に達成したので踵を返します。『リズと青い鳥』でも登校と下校で方向が逆になっていますね。ここまでくると後はエピローグ的なカットが入った後にEDが流れます。TV版だと次回への繋ぎが入ったりしますね。
エピローグ - 並んで帰る演出
ゴールを達成した後は、一緒に並ぶカットが入る事があります。
冒頭のお姉さんと一緒に戦えるのだろうか?という問いに対し、久瑠美の願望が叶う事が示唆されるカット。
次回からは、久瑠美もファントムとの戦いに参戦します。
一緒に歩くというのは一見特筆すべきシーンではないように思いますが、並んで歩くの逆を考えてみると意味を理解しやすいと思います。例えば片思いや喧嘩などの対立をしている場合は顔と顔が向き合う形になり絶対に一緒には歩けません。平行に並んで歩けるという事は、その問題を乗り越えた先にある友情や愛情、信頼という事を表現できますね。
高校3年生の『映画けいおん!』は、元々バンドメンバーと並んで演奏できるところからスタートしたので、その先のゴールとして、卒業後に飛び立って行くことを示唆しています。飛躍するための予行演習として海外旅行をしたのかもしれませんね。*12
おまけ - 足演出
山田監督の演出といえば、『足』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。ここまででも随所にでてきているので割愛しますが、特にこれは新しい!と思った足パターン*13を紹介します。
まとめ
『無彩限のファントムワールド』の『第6話 久瑠美とぬいぐるみ王国』から山田尚子さんらしい演出や京アニ演出を抽出し、他作品とも並べる事をしてみました。
また水たまりの下に存在する鏡像世界は最新作『リズと青い鳥』の絵本の世界やデカルコマニーの原型的なアイデアとも言えますし、同時期に制作された『聲の形』や過去作『たまこラブストーリー』演出との共通性があることが分かりました。
見覚えのあるカットや普段は中々あからさまには見せない他作品からのインスパイヤー(セーラームーン×タイムボカン×サンライズ立ち)もしていて、見どころも多かったです。
山田尚子さんは繊細な感情表現を得意とするアーティストといった評判を聞きますが、個人的には脚本の意図を、再現性や再利用性のある演出*14で論理的に落とし込む事ができるデザイナー的な部分も強くある方だと考えています。
近年では藤田春香監督や山村卓也監督など若手監督の作品を見ていると、そんな京アニ演出が随所に取り入れられ発展させているようです。京アニ作品は完成度が高い(とりわけ作画が綺麗)と言われる事が多いですが、その高クオリティの理由は再利用性の高い演出も一端を担っているのでは無いでしょうか。
以上『無彩限のファントム・ワールド 第6話 久瑠美とぬいぐるみ王国』は、山田尚子さん演出・京アニ演出のパターンを読み解く上でかなりの秀作でした。ファンの間では『ファントム』についての話題が出る事は少ないですが、この回以外も各話演出の持ち味をたしなむにはもってこいの作品となっておりますので、是非ご視聴ください。
引用:京都アニメーション作品
文章:α / 編集:Ω
*2:比較的有名な山田パーや羽ばたく鳥の演出はでてきませんが・・・それでも見覚えのある景色がチラホラ。
*3:この記事を読む前に最低でも『映画 けいおん!』『たまこラブストーリー』『聲の形』『リズと青い鳥』の山田尚子監督4作品は視聴しておくことをオススメします。
*4:絵コンテ上でカメラの配置やキャラクターに演技をつける事を演出と呼んでしまっていますが、演出という担当が別にあるので良い呼び方がないか・・・
*5:例えば、学校への登校〜帰宅は進行方向が逆です。
*6:きっと進行方向以外の要素、キャラクター・背景・カメラの位置・画角、前後のカットとの関係性など他との兼ね合いでレイアウトが決まっていくのでしょう。
*7:オーディオコメンタリーでは何故踏み外す事になったのか?について、小川太一さんが素敵な解釈を述べられていました。ぜひBlu-rayを購入ください。
*8:と言いつつ一回目の視聴で気がつくかというと難しい気がします(笑)個人的な体験では最後まで見たときに、そういう事か!と分かるケースの方が多いように感じます。また何度も見る上で、物語の主題を思い出す効果はありますね。
*9:『たまこラブストーリー』鴨川三角デルタの告白シーンは二人の立ち位置も含めて完璧なのでいずれ解説してみたい。
*11:この安全地帯ではクマだけにハチミツを舐めていたプー。
*12:『ファントム』には無かったのですが、飛行機・鳥の演出も山田尚子演出にはかかせない要素です。これも別でまとめてみたい。
*13:余談ですが、藤田春香監督は、この辺の足に対抗してかオリジナリティのある演出を開発しようとする心意気を持っているように感じます。『私たちは、いま!!全集2019』の山田尚子さんとの対談では、二人の仕事上での接点や憧れについて、そして実は大学の先輩後輩だったという事実が明かされたりと必読!
*14:見ていて分かりやすいし、真似したくなる演出という事です。
弾はまだ残っているか『天気の子』
キャラクターについて
映画は陽菜が病室で親を看病するシーンから始まります。本人より先に、窓に反射する透けた姿が映り、作中で彼女が消失することを暗示します。
もう一人の主人公、帆高は離島から家出してきますが、顔中に絆創膏が貼られています。理由は明らかにされませんが、作中で大人に何度も顔を殴られて、最後にはまた傷だらけになる。ということは家出の直前にも大人、おそらく親から暴力を受けていたのでしょう。
大人に楯突いては暴力的に矯正され、しかし結局変われず社会に馴染むことができない。これは帆高の愛読書『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドと共通します。
ホールデンは大人の世界はインチキだと断じ、純粋な子どもの世界を守ろうとしました。見通しのきかないライ麦畑で走り回る子どもたちを、崖から落ちないように捕まえる。そんな人物になりたいと願いましたが、社会から異端者とみなされて入院させられる羽目になります。
帆高もまた大人の世界に馴染むことができません。子どもである陽菜を守ろうと拳銃を発砲したことで警察に追われ、その対極にあるヤクザにもなれず、社会に居場所のない異端者になってしまいます。
ラブホテルで陽菜の裸を見ますが、抱くことはできません。子どもの純粋さを守るため、一線を越えて大人にはなれない。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でもホールデンが売春婦を呼んだものの何もできないシーンがありました。
食事がジャンクフードばかりで美味しそうじゃないのが良いですね。彼らは美味しいものを教わっていないので、ご馳走といえばそれしか知らないのです。『君の名は。』でお洒落なレストランやカフェが出てきたのとは大違いです。
主人公たちの背景はあまり語られないので感情移入できないという感想も聞くのですが、『君の名は。』の子どもたちの影と考えればいいと思います。
都会・地方の出身の子どもである点と少女が巫女である点は共通します。しかし『君の名は。』の瀧は建築学、三葉は巫女の伝統といった先代までの蓄積を受け継ぐことができたのですが、『天気の子』の子どもたちに親はおらず、なにかを継承する機会が与えられません。彼らの背景があまり語られないのは、語るに値するものがないからです。
帆高も陽菜も日の当たる場所に行きたいと語りますが、これは安心して暮らせる状況の事でしょう。雨が降り続いて足元はぬかるみ、確かなものはなく、その日を生き抜くことで精一杯。そういう状況からただただ抜け出したい。
須賀は作中でも言及がありますが、大人になることを選択した帆高です。娘のために帆高を追い出すという大人の判断をし、酒を飲み、タバコを吸って苦悩する大人であることを表現します。擬似的な親として、帆高に何度も大人になれよと言いますが、最後には警察にタックルして帆高を逃がすという大人ではあり得ない行動に出ます。結局変わったのは帆高ではなく須賀であり、作品として子どもの純粋な行動が支持されます。
凪は帆高に女性関係を見せつけるとき、必ず上座に座ります。フットサルコートでは一段上に座って説教しますが、最後には帆高を姉の相手として認め、同じ高さのベンチに座りなおして握手をします。
もろもろのシーンについて
序盤で帆高が、中盤で中学生が水塊に押し潰されるシーンがあります。一見、話の本筋との関係がよく分からない部分ですが、これは前の世代が残した負債のメタファーでしょう。映画で描かれる環境破壊や経済格差などの重圧が若い世代に降りかかるという意味かと思います。
新海誠監督の長編アニメは過去の有名作品のテイストを利用する場合が多いです。『雲のむこう、約束の場所』はエヴァンゲリオンや押井守、『星を追う子ども』は諸々のジブリ作品、『君の名は。』は細田守『時をかける少女』と大林宣彦『時をかける少女』『転校生』。今回は主には『天空の城ラピュタ』ですね。陽菜は親から飛行石のようなものを受け継ぎ、積乱雲の世界へと至ります。主人公の男女が破滅を選択する「バルス」なシーンもありました。水没する世界は『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』から『崖の上のポニョ』まで、ジブリ作品ではたびたび描かれるモチーフです。
ラストシーンについて
帆高・陽菜の選択により東京が水没するというのはなかなか衝撃的でしたが、それも仕方ないと思いました。負債だけ押し付けて解決する力を与えてくれない大人の世界など崩壊すればよくて、身近で大事な人を選ぶのは当然です。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になぞらえれば、崖から落ちた陽菜を、ただ大事な人を守りたいという純粋さをちゃんとキャッチできたのかなとも思います。
ただ、その後は納得がいかない点が多いです。なぜ2年半後の帆高は罪悪感を感じて大人に謝るのか。僕たちは大丈夫などと言うのか。
帆高が進学する大学のパンフレットにはこうあります。「2000年代以降、アントロポセン(人新世)という言葉が拡がりを見せています。これは我々ヒトの活動が地球に大きな影響を与えていることを表した地球科学に関する造語で、…」この考えに基づけば、人間の活動によって自然のバランスは徐々に崩れて、帆高たちの目の前でついに壊れてしまったのだと解釈でき、現実の環境問題への警鐘ともとれます。しかし、須賀や瀧の祖母は、自然に対して人間は無力で影響を及ぼすこともできないと語ります。帆高は自分たちの選択が世界を変えてしまったと言い、それは天気の巫女の力によるものと考えています。大学パンフレットの内容と矛盾しており、巫女しか自然に干渉できないのであれば、地球科学を学ぶことは無意味です。
もう一点気になるのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の単行本の扱いです。映画開始から約40分の間になんと5回も登場します(フェリーで1回、ネットカフェで2回、須賀の事務所で2回)。須賀や風俗スカウトなどの子どもを搾取する大人に対して、帆高が不信感を持ち反抗していることを表現していると思われます。5回目の直後、花火大会で晴れ女ビジネスに成功し、以降は大人の力が必要なくなるためかさっぱり出てこなくなります。
最後の6回目の登場は、帆高の大学進学の引越し時です。暗がりの中に置いてあってほとんど判別できず、扱いが極めて小さくなっています。東京を水没させた負い目から、大人への反抗心は無くしてしまったのでしょう。
以上の点を総合すると「帆高と陽菜は東京を水没させる大罪をたまたま背負い、大人への抗弁はできず、自然の気まぐれに任せるほかは償うこともできない」ことになります。この状況のどこが大丈夫なんでしょうか。
帆高が拾った拳銃マカロフは9発装填できるので、2発撃って7発残っているはずです。負債を子どもに押し付けて、のうのうと良い暮らしをしている大人は許せない!最後は暗転してから「ダン!ダン!」と銃声2発、須賀と瀧の祖母にぶち込んで欲しかった。フィクションなのだから帆高は姿勢を貫いて、理不尽な社会に牙を剥くテロリストになって欲しかったです。
まとめ
以前に『君の名は。』について書きましたが、新海監督の次回作として観客を絶望の底に突き落とす作品を期待しました。『天気の子』は『君の名は。』のダークサイドといった趣で良かったです。同じ東京が舞台ですが全くキラキラしていない。見た目キラキラしているのは風俗店のネオンやラブホテルのバスタブという頽廃ぶり。大ヒットした『君の名は。』の次にキワドイ作品を投げ込んでくるのは素晴らしいと思います。
これまでの新海作品で描かれてきたのは「大人になることへの憧れ」でしたが、今回は「大人への怒り」でした。今の大人は子どもに対する責務を果たしているか。そうでなければ子どもが大人になることを拒絶し、世界を崩壊させても仕方ないのではないか。今までの作品にない切り口で新鮮でした。
『天気の子』(2019)に前後して『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)といった貧困、格差社会をテーマにした映画が公開されて話題になりました。これらの映画には、主人公家族は貧乏だけれど仲は良い、生きるために犯罪行為に手を染めるなどの共通点が多くあります。(パラサイトとは大雨・水没も共通します。)作り手は当然主人公たちに共感するように映画を作るわけで、真に悪辣なのは罪を犯した彼らではなく、抜け出せない格差を生み出し、問題を押し付ける権力側だろうと訴えています。
本作の「負債を押し付ける大人 VS 純粋無垢な怒れる子ども」という冒頭の構図は共感できるものでしたが、天気の巫女にまつわるオカルト風味に引っ張られて「気まぐれな自然 VS 帆高・陽菜」と「そのとばっちりを受けた大人」という形で決着してしまったのは残念でした。
文章 Ω
引用
数学的帰納法で証明される境界の彼方 栗山未来・北宇治高校 吹奏楽部・京都アニメーションの「ずっと」
リズと青い鳥の記事を更新してから約一年以上経ってしまいましたが久々の更新です。
これまでは山田監督作品について書いてきましたが、劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンの公開も間近!という事で、ヴァイオレットの石立太一監督の初映画監督作品である「劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE-」 から書き始めたいと思います。
境界の彼方はハミ出し者同士が出会い問題を解決していきますが、京アニの他作品 中二病でも恋がしたい!や聲の形、小林さんちのメイドラゴン 等々、京都アニメーションの通奏低音とでもいえる内容であり、ファンとしてはとても楽しめる内容でした。
ただヴァイオレットと比較すると一般的なレビューは賛否両論ですね。確かにTV版からして設定やセリフ、各キャラクターの行動まで把握するのは難しいお話でした。さらに劇場版ではメガネで人気のあるヒロインの栗山未来が記憶を無くしています。悪の真打ちが弥勒というのも想像を超えてはいません。特にアウトローな二人が反発しあいながらも支え合って幸せになろうとする流れはTV版の韻を踏んだような展開だった事もあり、一般的には少し退屈さを感じされる所があるのかなと想像はできます。私も初見では「何故、記憶を消してまで劇場版で似たような話しを繰り返したんだろう?」と疑問が残ったのは事実です。
でも、そのそんな「繰り返し」が重要という「劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE-」の一つの見方を紹介します。
なぜ栗山未来は記憶を失う必要があったか?
「繰り返し」の説明の前に、栗山未来が記憶を失った点を考えてみます。劇中で記憶が戻る事はなく、家族にまつわる子供の頃の記憶や栗山家が受けてきたひどい仕打ちと「不愉快です」という口癖のみで、最後の最後まで過去篇の内容を思い出す様子がありませんでした。じゃあ、過去篇は何だったんだ、劇場版は同じような話しを繰り返しているだけなのか?
そんな設定の中、あえて今回「記憶を失わせた上で覚えていること」、改めて強調されているのは何かというと、「過去から現在に渡り背負ってきた不幸な血の運命」です。
ここからは私の想像ですが、その栗山一族の「不幸な運命」をお話しの核として持ってくる際に、TV版では実質死んでしまった栗山未来の次の転生体、つまり栗山未来を生まれ変わらせて赤ちゃん〜子供から高校生までの成長を描きつつ劇場版の尺の都合で辻褄を合わせて収めるのは難しかったのだろうと想像します。
そのため「生まれ変わりの代用」として「記憶を失う」必要があったのではないでしょうか。過去編と未来編の未来ちゃんは、OSは同じだけど実質的には血の繋がった転生体や生まれ変わりと考える事にします。スマホのメモリからデータを消して最新OSを入れ直したら形は同じでも実質的には違うスマホとなってしまう事に近い状態とでも言いましょうか。
数学的帰納法による幸せの証明
それでは「生まれ変わり」をさせてから、なぜまたTV版と似たような話しを描いたのか、それは「また生まれ変わっても不幸な栗山未来を神原秋人の愛で救う」という事を改めて描きたかったからだと考えます。同じような状況に陥っても「繰り返し」救う事が重要なんです。これは数学的帰納法のような証明*2をしているのではないかと思うのです。
TV版以前 : N-1回目以前の転生 不幸せ(不愉快)
TV版または劇場版 過去篇 : N回目の転生 神原秋人によって幸せになる
劇場版 未来篇 :N+1回目の転生 神原秋人によって幸せになる
さらに未来:N+2回目以降の転生 神原秋人によって幸せになる
ポイントとして神原秋人は「死にたくても死ねない・不死身」という設定がここで効いてきます。今後栗山未来が何度生まれ変わっても、これからは神原秋人によって永久に幸せになる事が証明された映画なのです。尊い・・・。
不幸な運命を背負ってきた主人公とヒロインが共に「永遠に」生きていく*3。言葉にするとこっ恥ずかしいだけれど、どストレートに尊い話ですね。二人の幸せをずっとにするためN+1回目を劇場版の尺で描く必要が出てきた。TV版の栗山未来がそのまま劇場版に出てきてもずっと(数学的帰納法)の証明にはならなかったはずです。そこで劇場版という尺も考慮し、論理的に導き出された「記憶を失う」設定だったのではないでしょうか。
歌詞も"ずっと、いつまでも"
ここで主題歌 会いたかった空の歌詞を一部引用します。
ずっと待っていた景色
(ずっと) ずっと (ずっと) 共に生きて行こう ずっと愛のままで・・・
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/minori-chihara/aitakatta-sora/
”ずっと待っていた”というのは、現在の栗山未来だけでなく、過去から現在にかけて不幸の運命から抜け出せなかった栗山未来の事でしょう。
さらにサビに入ってから”ずっと” “共に”というフレーズが繰返しでてきます。生まれてから死ぬまでの現世の事ではなく、来世もその次も未来永劫 秋人と愛で共に生きようという歌詞ではないでしょうか。
(余談)現在の幸せを描くED後
栗山未来の「未来」が永遠に救われてエモいという事を説明してきた訳ですが、「過去」の呪いを断ち切って「未来」永劫が救われるとしても、今「現在」の未来ちゃんには将来の転生体は本来関係無いわけです。今現在の未来ちゃんはどうなんだ?幸せになるんか?といった声に応える最後のシーン。
過去から続く、永遠の不幸に捕らわれて足踏みしていた状態を表現する踏切。秋人と二人で運命を乗り越えていく事が示唆されています。
最後の未来ちゃんの満面笑顔のカットがとても良いんですよね。リズと青い鳥でいう所のハッピーアイスクリームのような。これを見るためだけにTV版〜劇場 境界の彼方 - I’LL BE HERE - までをもう一度見たくなってきました。
響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレでのずっと
数学的帰納法のような証明がされているかな?というお話が他の京アニ作品にも出てきます。 劇場版 境界の彼方 と同じく花田十輝さんが脚本をされた 「響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ」です。
注目してもらいたいのは作品のタイトルです。結果的には全国優勝したわけでもなく、地方大会で駄目金だった、主人公の久美子もまだ2年生で、これから3年生なのに「なぜフィナーレ」と思いませんでしたか?
かなり個人的な見解ですが、この映画は北宇治高校が「頑張り続けられる」というカルチャー・組織・システム構築が完成(フィナーレ)した事を説明した映画だからなのではないでしょうか。
1年目は、はじめこそ滝先生に焚き付けられて頑張りはじめたでしたが、2年目は自発的に部員が鼓舞し、問題を抱えたり斜に構えた部員が入っても、いつのまにか本気にさせる実力勝負のシステムも安定稼働。久美子と奏のやりとりでは、まるで一年前の久美子自身を見ているような繰り返しの構造となっています。エンディングでは3年目の久美子部長が出てきますが、北宇治高校 吹奏楽部は来年もその次の年も、ずっと終わる事は無く「頑張る」のだろうと想像させます。
栗山未来が永遠に幸せになる構造に近いと思うのは自分だけでしょうか。
おまけ 京都アニメーションのずっと
そんな誓いのフィナーレの制作終盤は、京都アニメーションやアニメーションDoのスタッフが1つのスタジオに集まって高揚感を持って制作をやり遂げたという事を京都アニメーションのTweetで知りました。
【#京アニ映画year】
— 京都アニメーション (@kyoani) April 19, 2019
「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」には、京都アニメーションとアニメーションDoの映画制作における"いま"を余すことなく詰め込んでいます。映画を通して、私たちの想いを感じていただければ幸いです。https://t.co/LM57JyLVS9 pic.twitter.com/1NJPLnNszt
このTweetを知ってからというもの、誓いのフィナーレでは「京都アニメーション」がアニメ制作に対する「誓い」を北宇治高校 吹奏楽部のキャラクターたちに代弁させているようにも感じるのです。
ファンとしてはただ待つことしか出来ないのですが "ずっと、いついつまでも” 京都アニメーションの作品と向き合って行きたいと誓って、この文章を締めたいと思います。
引用
文章 α ( mirrorboy )
子育て×タルコフスキー×変態性欲『未来のミライ』
オープニング
α:山下達郎の曲に載せて、家族写真のスライドショーで映画が始まりました。なんだかいきなりエンディングみたいです。
樹木を白抜き、これが本作の真の主役ということですね。
自宅
建替えた自宅がかなり特徴的です。部屋が階段状に連なる平屋。元々あった木を中庭に植えて、左下が子供部屋、右上に大人と過ごす空間が並びます。これは画面の座標を表していて、左・下が幼さ・後退、右・上が成長・前進を意味します。
未来ちゃんが来た翌日、くんちゃんは久しぶりに帰ってきたお母さんに甘えます。寝起きの姿は左向きで丸まっており、胎児のようです。
本作では木が光ると超現実の世界に突入します。作中で詳しい説明はありませんが、これを仮に「トリップ」と呼ぶことにします。
トリップ1.ゆっこ・現代・後退
くんちゃんの前に、擬人化した犬のゆっこが現れます。背景はアンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』(1983)ですね。作中で死期の迫った男が見る故郷の夢とそっくりです。さっき雪も降っていたし、これは年老いたくんちゃんの走馬燈なのかも…。まあ想像の世界ということではあると思います。
タルコフスキーネタだと、庭の木は『サクリファイス』(1986)からの引用ですかね。
なるほど、分かった!この後核戦争が勃発するけれども、お父さんが未来ちゃんを抱くことでそれが回避できる。感激したお父さんが自宅に放火、救急車で運ばれて映画が終わるんだ。
α:そんな夏休み映画はないですよ。
α:ゆっこのしっぽがくんちゃんのお尻に刺さります。これは肉体関係を意味していますね。
獣姦ですね。かなり直接的、『シャイニング』(1980)よりはわかりやすいです。
トリップ2.未来ちゃん・現代・前進
α:蜂ゲームでくんちゃんが恍惚としています。これは肉体関係を意味していますね。
近親相姦ですね。なんだか怖くなってきました。
α:ゆっこの外した笏がお父さんのお尻にぶら下がっています。これは肉体関係を意味していますね。
お父さんとも関係があったとは!乱れきっていますね。
トリップ3.おかあさん・過去・後退
お母さんとアルバムを見ていたためか、今度は過去にトリップします。
α:くんちゃんは拗ねて左側に、幼くなるどころか魚類にまで退化してしまいました。
幼いお母さんに出会って左側に進み、自宅に到着。お母さんにそそのかされて、めちゃくちゃに散らかします。
逃げ出した後は右側へ、暴風雨の中を進んで現実に戻ります。次に寝ているシーンになりますが、ここでは右向きでまっすぐ寝ています。反省して成長したのでしょう。
おかあさんがばあばから叱られたときの「信じられない!」という言葉は、くんちゃんもおかあさんから言われてましたね。「〇〇は私の宝」とか「何事にも初めはある」とか、同じ言葉が世代を超えて引き継がれていきます。
トリップ4.ひいじいじ・過去・前進
くんちゃんが自転車を練習する公園は「根岸森林公園」で、奥の建物は「旧一等馬見所」、昭和初期に作られた競馬場の跡です。かつては屋根がありましたが、のちに撤去されているので、ひいじいじと乗馬するシーンと現代とでは形状が違います。
ひいじいじはくんちゃんを乗せて、馬で、そしてバイクで右側へ駆け抜けていきます。怖がらずに前を見て進むことを学び、自転車に乗れるようになりました。
ひいじいじの写真を見てお父さんと勘違いするのは、お母さんがひいじいじと似た雰囲気の人を夫に選んだということでしょう。
トリップ5.くんちゃん・未来・後退
高校生になった自分に反抗して電車に乗りますが、これは左側に進んでいきます。遠くに見える黒い新幹線も左に進みます。
未来の東京駅に到着しますが、くんちゃんに構ってくれるお父さんはおらず、お母さんは怒ってばかりのオニババです。
東京駅の遺失物係に家族の名前を聞かれて、くんちゃんは答えられない。最小の社会である家族から孤立したように感じているからです。くんちゃん自身もただ家族に要求するだけ、受動的で双方向の関係性が築けていません。
そのために東京駅の地下、役目を終えた電車の墓場に辿り着き、黒い新幹線で一人ぼっちの国に連れ去られそうになる。社会的な役割を果たせない子供でいつづけるのであれば、居場所は無くなってしまうということですね。新幹線に乗ってしまったら、はるか左下に連れていかれて戻ってこれそうにありません。現実世界ではわがままな引きこもりになってしまうのでしょう。
それに対してくんちゃんは、未来ちゃんの兄であることを引き受けますと宣言をする。初めて自分の役割を自覚したことで急激に成長し、地下を飛び出して、東京駅の屋根を突き抜け、空に打ち上がるのです。
葉っぱにナンバーが付いていますが、お父さんの思い出がSYL91-897-073-0、お母さんとひいじいじがHMS93-959-774-0、ゆっこと未来の自宅がLDB82-121-877-0で、2組は同じナンバーです。何か規則性があると思うのですが、ちょっと思いつきませんでした。
タルコフスキー的に解釈すると、男女が宙に浮かぶのは、セックスして結ばれた喜びを意味します。やっぱり2人の間には肉体関係があるのではないか。
α:くんちゃんが未来ちゃんにバナナをあげました。これはもう決定的ですね。
離乳食がお兄ちゃんのバナナって、どうかしてますよ。
エンディングはオープニングと同じく家族写真のスライドショー。映画全体がループになっています。或る家族の或る日常を切り取ったということでしょう。αでありΩである。
感想
劇場公開時は世間から散々な評価だったのでスルーしてしまっていたのですが、観てみたらかなり良いのです。個人的には細田作品で一番良い。
一見して、わがままな男の子とダメな両親との日常、そこに挟まれる超現実的なトリップの繰り返し。極めて小規模で変な映画です。過去作のようなエンターテイメント大作を期待した観客には、そっぽを向かれてしまったのかもしれません。
画面の使い方に気付くと、ずっと分かりやすくなると思います。家の真ん中にファミリーツリー(家系図)があり、右上と左下を行ったり来たりする。前進と後退を繰り返しながら、それでも少しずつ成長していき、やがて次の世代が生まれて、またそれを繰り返す。そして子供が自然と成長する裏には、家族の思い出の積み重ねが隠れているのではないか。普遍的なテーマを独特の世界観で描いた、素敵な映画でした。
ただ、突っ込んで観ると監督の性癖がにじみ出ていて、獣姦・近親相姦を扱っている危ない作品です。なぜこれがR18ではないのか。子供が真似して飼い犬のを尻に刺したり、妹に自分のバナナを与えたりしたら大問題です。
細田監督にはぜひ年齢制限をかけた上で、思いのまま過激な作品を作ってもらいたいですね。
α: 家系図(アカシックレコード)にアクセスし過去を参照しながら未来に向けて成長するギミックが、テクノロジー・子供・獣と過去作品の要素を参照しつつ未来に向かっている映画をつくる監督の作家性ともリンクしている二重構造が面白かったです。
本作は一見テクノロジーは関係無さそうですが、家系図の表現は葉にシリアル番号のような数字が書いてある事から話題のブロックチェーンやDAGといったデータベース技術へ参照なのか偶然なのかリンクしています。VRやMR向けの3次元映像記録装置やサービスもそろそろ実用化されていきそうで、そういった映像データをブロックチェーン上に記録する事ができれば、本作に出てきたアカシックレコードも実現不可能という訳ではないでしょう。サマーウォーズが発表された当時、まだまだVRは流行していなかったですね。ローテクが蔓延ると噂のアニメ業界において、比較的テクノロジーに対する先見性があるというかナチュラルボーンで出来ちゃう方なのかもしれません。
技術的な未来志向とは別に、人口減少社会において子供の成長をテーマに据えるというのも将来を見据えていて個人的には好感が持てました。話は代わりますが、ケモナーアニメ監督というと、けものフレンズ・ケムリクサのたつき監督とも比較できそうです。日本を悲観しているのがたつき監督*1で、希望を持っているのは細田監督と言えるのかもしれないです。
細田監督にはぜひテクノロジー・獣・子供などをモチーフにしつつ、前向きな未来を描いていってもらいたいですね。
語り:Ω/編集:α
引用
『未来のミライ』監督:細田守 2018
『ノスタルジア』監督:アンドレイ・タルコフスキー 1983
『サクリファイス』監督:アンドレイ・タルコフスキー 1986
『シャイニング』監督:スタンリー・キューブリック 1980
ベン図で理解する「リズと青い鳥」
「リズと青い鳥」はこれまでの山田尚子監督&吉田玲子脚本作品と同様にストーリーやキャラクターの心情をレイアウト・仕草・背景・音楽等々の演出を論理的に積み上げる事で繊細な感情を伝えようとする京都アニメーションらしい作品です。秘められたメッセージを解読する楽しさがありつつも、内容を一回で納得するのは比較的難しい作品だとも感じました。ファンとしては出されたお題を咀嚼するのはこの上なく楽しい時間なのですが。
作品を構成する鳥・鳥籠・絵本の世界(デカルコマニー)・ベン図など作品を象徴する要素いくつかありますが、今回は「ベン図」を中心にお話の内容を理解してみます。

なぜベン図なのかは、終盤に出てきた上記のカットの為です。これは希美とみぞれの共通要素ができた事を表現するベン図として理解できます。重要な事として中央付近は色が混ざり合い徐々に紫色になっています。
 
2人が混ざり合った色である紫色は「リズと青い鳥のタイトル文字」に使われている事からもキーとなる色と考えられます。
2人がどのようにベン図の紫色を獲得していくのかを検討してみます。
互いに素
冒頭の登校シーンの後に disjoint の文字が画面中央に提示されます。また中盤に数学の先生が”互いに素”の授業を行っていました。disjoint = 互いに素をベン図で描くと上記のようになります。
このdisjoint = 互いに素は2人を構成する要素や言動を集合に見立てた時に、重なっていないつまり共通の要素が無い事を表現しています。それでは、どのように互いに素なのか2人の要素をチェックしてみましょう。
要素 | 希美 | みぞれ |
---|---|---|
登校 | 来る | 待つ*1 |
上履きの置き方 | 適当 | きっちり |
ソックス | 黒 | 白 |
希美が拾った青い羽 | 綺麗 | 綺麗じゃない*2 |
自由曲 | 知ってる・好き | 知らない |
コンクール | 金を取る・楽しみ | 一生来なくていい*3 |
時間 | 時計をしている*4 | 時間を進めたくない*5 |
借りた本 | 絵本 | 小説 |
後輩 | あり 囲まれている事が多い | なし*6 |
リズと青い鳥(中盤) | 私が青い鳥 | 私がリズ |
音楽の実力 | 無し | 有り |
相手のこと | 友達の1人 よそよそしい 嫉妬 | 好き 大切 特別 |
久美子と玲奈の演奏 | 窓を開けたまま聴き入る | すぐに窓を閉める |
大好きのハグ 未遂 1回目 | 嫌だった? | (嫌じゃない) |
大好きのハグ 未遂 2回目 | 今度(してあげない) | して |
リズと青い鳥(後半) | 私がリズ | 私が青い鳥 |
大好きのハグ | みぞれのオーボエが好き*7 | 希美の全部が好き*8 |
これでもかというほど2人に共通点が無い事が描かれています。クライマックスである生物学室での「大好きのハグ」でも、特に共通要素が増える事はなく、ただひたすらにすれ違う2人が描かれているのが印象的です。
(一部要素を抜き出しにですが、)ベン図で表すとこのような状態です。ちなみに”音楽が好き”はユーフォニアムでは吹奏楽部に参加している誰もが基本的には持っている要素・嗜好なので、数字でいえば1として捉えています。
共通部分
中盤までは、ほぼ共通部分が無い2人。どのような過程を経て共通部分を持つ事になるのでしょう。

きっかけとなったのは剣崎梨々花です。鎧に対して切り込んでいくような名前を持つ彼女がみぞれに積極的にアプローチを行います。剣崎梨々花という「後輩」が出来た事で、ベン図の共通要素が出来ました。希美は戸惑っていましたが。

久美子と玲奈の演奏により、自分の音楽の才能や情熱に疑心暗鬼になった希美。進路調査の紙を出していなかった共通要素が発覚します。

玲奈からのプレッシャーや新山先生との面談で自分の立場に気がつき、みぞれが青い鳥として音楽的な才能を羽ばたかせる事ができました。その時、後輩に囲まれる事を経験しています。一方希美は生物学室へ逃げてしまいましたね。このようにリズと青い鳥の立場が交換され共通要素が増えました。

生物学室での「大好きのハグ」の後は希美の気持ちが急展開。思い出したのか覚えていたのかは分からないですが、出会った頃の思い出をハッキリと回想しています。これも共通要素です。

希美は「大好きのハグ」の後に吹っ切れたようです。「一緒に」下校をし始めました。2人は将来に向けては音大に普通大学と進路を決め、そして希美は「みぞれを音楽的に支える」みぞれは「頑張る」とお互い「コンクールに向かう」目標ができました。飛翔する2羽の鳥は、未来へ歩を進めだした2人を表していたのでしょう。
そして最後のカット。ベン図が重なった事を象徴する表現として出てくるのが、2人が「本番頑張ろう!」と言葉を重ねる「ハッピーアイスクリーム」です。ここまでをベン図にしてみましょう。
めでたく2人が共通の要素を持つ = joint の状態、紫色を獲得してエンディングを迎えられました。最後のカットもdisjointからdisを打ち消してdisjointとするカットで締めます。
希美の気持ちは?
大好きのハグ後の図書館のシーンでは「はいはいわかりました〜!」と元気に答える希美。どうやら音楽の才能・進路の事は吹っ切れてる様子です。しかし、みぞれへの恋愛に関する気持ちは名言されていません。
みぞれの恋は叶ったのか?希美のみぞれに対する気持ちは?
山田尚子監督はパンフレットで「2人に添い遂げて欲しい」と示唆はしていますが、明確に希美の気持ちを説明したカットは映像を見返しても無さそうでした。今作もあ〜あ〜恋をしたのはーいつからか?*9ですよ。
ここからはかなり個人的な解釈になります。ヒントは、リズと青い鳥の為に書き起こされたエンディングの曲 Songbirds にあるのでは無いでしょうか。
今しか見られないような西日の中
ポケットに隠したチョコレートが溶けていった
歌にしておけば忘れないだろうか
たった今好きになった事を
HomecomingのSongbirdsの歌詞からの引用です。I just come to love it now. と歌い上げられる歌詞。このセリフは響け!ユーフォニアムの第二期みぞれが県のコンクールで金を取った際に久美子から「コンクールはまだ嫌いですか?」と問われ「たった今好きになった」と答えている時のセリフからの引用でしょう。みぞれが「コンクール」を肯定的に捉えられるようになった事を表現しているセリフです。
しかし今作におけるこのセリフは違う文脈で使われているようです。「西日の中ポケットの中のチョコレートが溶けていった」という歌詞は生物学室での大好きのハグをした夕日に照らされた情景と、「みぞれのオーボエが好き」と伝えドロドロした物が一気に吹き出したような笑顔の希美に重なると感じます。そうです、これは「希美」の気持ちを歌っているのではないでしょうか?

歌詞を上記のように解釈すれば”お互いが好き”という共通の約数は増える事になります。
Songbirdsは2期のセリフを引用しつつ、好きの対象は「コンクール」「みぞれ」と違いますがリズと青い鳥の演出として繰り返し使われる対比・デカルコマニーの手法を踏襲しつつ、ベン図の共通要素を増やし、本編では隠れていた恋の結果も知らせてくれる。本作の演出の重要な一部になっている素晴らしいアニソンだと思います。
こうしてベン図*10を通して整理してみると、リズと青い鳥は希美の言うように「ハッピーエンド」だったという事が理解できました。
おまけ

映画の結末であるハッピーアイスクリームのその後を描いた絵でしょう。注目するのは2人が食べている”ダブル”のアイス。ダブルは重なるという意味がありますね。みぞれのアイスは後輩の黄色(梨々花)が青と赤のアイスに挟まれていて、まるで2人のベン図のようです。そして、希美のアイスはSongbirdsの歌詞に出てきた西日とチョコレートのアイスを食べているようですね。
引用
文章: α ( mirrorboy ) 編集: αΩ
*1:モデルになった学校まで行った事がありますが、永遠と20分くらい上り坂を登る苦しいコースです。長い時間歩くなら、友達同士一緒に来ても良いのではと思います。つまり希美にとってはそれほどの中では無いのでしょう。
*2:みぞれの髪を触る癖があります。左髪は否定、右髪は肯定でしょう。この態度と実際の言動がズレる事があり、みぞれは無意識でやってしまっているようです。希美は冒頭の羽を拾うシーンでみぞれの癖を間違えており、我々よりもみぞれへの理解度が低い子なのです。
*3:優子が「最強の北宇治をつくっていこう!」と部員を鼓舞している時にも左髪を触っており興味無さそうです。
*4:大前久美子や先生など、主体的に話しを進めなければいけないキャラクターは時計をしています。
*5:頻繁に生物の標本(死骸)がある生物学室に行く事や、進路指導調査表を出してない事からもわかります。
*6:あえて言えば3匹のミドリフグは後輩の代用として機能しています。餌をあげる = 一緒にファミレスに行って後輩に振舞うの隠喩でしょう。無意識では後輩と仲良くしたかったのかも知れません。
*7:「そして私のフルートを褒めて」という心の声が聞こえてきそうでした。
*8:しかし、希美がオーボエを上げたのと対象的にフルートには何も言及していません。生物学室で窓の外から希美の光を受けるシーンは、象徴的です。フルートの本分である音ではなく反射光を見て高まっています。みぞれも希美をの本質を見ている訳ではないのかもしれません。
*9:聲の形EDの「恋をしたのは」より。山田監督が恋をした瞬間を描くにはキャラクターを川に沈めないといけないので、リズでは難しかったのかもしれません。水槽は置いてありましたが。
*10:今回は分かりやすくする為にハッキリと境界のあるベクター円を使って話しを進めて来ました。実際の映像に出てくるベン図は水彩調でもっと境界が分からないよう滲んだグラデーションの絵になっています。現実的には全ての要素をロジカルに0と1で分けられない事を表現しており微細な表現にこだわる監督らしい演出です。という事を補足しておきたいと思います。
練りこまれた豊かな荒野『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
砦
冒頭から情報量がすごいです。
双頭のトカゲはスリーマイル島原発事故で生まれた双頭の牛を連想させ、放射能汚染が進んでいること、そしてそれをすかさず口に入れないと生きていけない、過酷な世界が舞台だということを観客に突きつけます。
いきなりの目玉飛び出しショット!嬉しかったですね。1の冒頭、ナイトライダーがクラッシュするシーンで、血走った目のアップになる。本作でも開始早々に出てきて、「間違いなくマッドマックスの新作を観てるんだ!」って気分になりました。
捕まったマックスは背中に屈辱的な入墨を掘られますが、上下逆さまなんですね。輸血袋は足を吊るして使うから。
イモータン・ジョーの登場シーンも良くて、観客には皮膚のただれた老人であることを見せる。妻や側近たちだけが知り得る真実で、ウォーボーイズ達はムキムキの不死身の男だと信じている。途中でネタばらしすると、観客も拍子抜けすると思います。最初から見せることで、ジョーがカリスマ性を維持する為に苦労していることが分かる。
ウォーボーイズの掛け声は「Fucacima,Kamakrazy,Warboys!」これは日本語字幕にはなっていません。Fuckが福島原発事故が発生したためにFucacimaに変わってしまった。俺たちは原発事故くらいぶっ飛んでるという意味でしょう。Kamakrazyはカミカゼ+クレイジーの合成ですね。ウォーボーイズなんてイカれてる、日本は関係ないと笑っていられない。
ぶくぶくに太った女性から母乳を搾り取ってるのもショックなシーンなんですけど、これで家畜が絶えてしまったこと、ジョーが他人を家畜と考えていることが分かる。
水を与えるシーンは漫画『AKIRA』が元ネタかと思います。荒廃した世界で、超人的な男が宗教で支配する。4巻の冒頭とよく似ています。砦の周りに住み着いてるのはミヤコ神殿の周りの集落に似ている。映画ナタリーのインタビューで、ジョージ・ミラー監督は『AKIRA』からの影響について述べています。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ジョージ・ミラー監督インタビュー (3/3) - 映画ナタリー 特集・インタビュー
往路
フュリオサがガスタウンに向かいますが、東に向かうと言って左に進んでいくんですね。普通は北が上、東が右なのでちょっと変です。理由として思いつくのは二つ。一つは南半球にあるオーストラリアの映画なので、南が上で東は左とした。もう一つは映画の進行方向の話で、洋画だと右に進んでいくものが多いです。2001年宇宙の旅は木星目指して右に進む。アラビアのロレンスも右、最近だとダンケルクも右。右が正、左が反とすると、フュリオサ達は間違った方向に進んでいることを示唆しているのかなと。最後は思い直して右に帰ります。
α:そういえば、アナと雪の女王で、家出したエルサが向かった雪の城があったのも左でしたね。最終的には城下町に戻ってくる話の方向感は似ています。
ヤマアラシのトゲトゲのワーゲンはオーストラリア映画『キラーカーズ/パリを食べた車』からの引用です。この映画観たんですけど、実に変な作品で。まずパリって言ってるんだからフランスの首都だと思うじゃないですか。でもオーストラリアのパリという田舎町が舞台です。(検索してパリ川ってのはあったけど町があるのかは分からなかった。)パリの人たちは通りがかった車を襲って生計を立ててまして、捕らわれた人は逃げようにも暴走族が立ちふさがって逃げられない。住民と暴走族はグルなのかと思いきや、対立していって暴走族が町を破壊する。トゲトゲの車は暴走族の愛車です。
マックスは過去のトラウマから精神を病んでおり、人間性を失っています。スリットから「枷をつけたケダモノ」と呼ばれますが、その通りです。フュリオサに名前を聞かれても答えませんが、信用していないこと以上に、関係を築くことが怖くてできないのだと思います。名前を呼ぶ誰かが死んでしまったら、次は完全に壊れてしまう。
対するフュリオサはイワオニ族に会う時に、顔に真っ黒なグリスを塗りなおします。イモータン・ジョー軍大隊長としての戦化粧ですが、彼女もまた本来の自分ではいられない状況にあります。タールは徐々に薄くなっていき、鉄馬の女たちに再会した時には完全に落ちて、本来の姿を取り戻します。
スプレンディドが身を乗り出すシーンで、いつも涙ぐんでしまいます。生き残るためにスプレンディドが盾になる。その選択に賭けて他の妻たちが必死に支える。彼女を失うことは自分が死ぬよりも辛いのに。
生き残るために大局的な選択ができるか、というのはマッドマックスに共通したテーマであると思います。1作目のラストで、暴走族の残党は自分の足を切り落とすことをためらって、爆死してしまいました。
狙撃のシーンが素晴らしいです。マックスがウォーリグを分捕ろうとしたとき、フュリオサが右耳あたりで発砲する。キーンという、銃声による耳鳴りが表現されます。武器将軍の狙撃シーンでは、自分を殺そうとしたフュリオサに銃を渡して、右肩を貸している。ここでも耳鳴りがしますので、対になるシーンです。命を預けるほど信頼関係が深まっていることが分かります。
復路
ガスタウンの部隊、ポール・キャッツは曲芸師のようでなんとも奇妙です。よくこんなこと思いつくなと思いましたが、1作目を見返すとすでにやっていたんですね。崖から棒高跳びの要領でタンカーに飛び乗るシーンがあります。さすがジョージ・ミラー監督!ブレない男です。
最後の戦闘でフュリオサは気胸になり瀕死に。こんなに地味に死にかける映画を観たことがありません。さすがジョージ・ミラー監督!元医者なのでリアルです。
ここで初めて、マックスは自分の名前をフュリオサに伝えます。共闘する中で信頼関係が築かれたとともに、孤独なケダモノだったマックスの人間性が回復したことが分かります。また輸血によって、復活した英雄マックスの力がフュリオサに分け与えられます。マックスは砦を去りますが、これから襲い来る困難は英雄フュリオサが解決するでしょう。
映画ナタリーの監督インタビューでも言及されている、ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』を読むと、様々な部分が対応していて面白いです。
本作の主人公はマックスではなくフュリオサでしょう。日常的な住まいを出て、門を抜けて境界を越えていく。数々の試練を乗り越えて専制君主を打倒する。再び境界を越えて帰還し、元居た世界に恩恵をもたらす。
過去作ではもちろんマックスが英雄役でしたが、本作では精神を病んでいて、それに振り回されています。選択を迫られるところでは、自分の意志ではなく、死なせてしまった少女の亡霊に誘導される。精神状態を知らないフュリオサ達からみたら、不思議な力で手助けしたり、道を示す思いがけない人物といったところです。これは『千の顔をもつ英雄』における「自然を超越した力の助け」に対応すると思います。「自然を超越した力で助けてくれる人は男の姿をしていることが多い。民話では森に住む小さい人々や魔法使い、世捨て人、羊飼い、鍛冶屋などがいて、姿を現しては英雄が必要とする魔除けや助言を授ける。」マックスは世捨て人ですね。
感想
公開初日に観に行って、文字通り虜になりました。最高なあまり他のアクション映画を観ても退屈に思ってしまうことが半年ほど続きましたが、そんな事は初めてでした。シリーズ過去作の要素をちりばめつつ、性差別や過激派の自爆テロといった現代的な問題をえげつない形で取り込んで、真摯に向き合っている。倫理観はぶっ壊れて、危うく成立している世界観やシーンの作りこみ。今回の記事を書くのに見返しても発見があり、なんて上手いんだろうと驚きます。
続編の製作は決定していますが、難航しているようです。ジョージ・ミラー監督、御年73歳ですから、なんとか元気なうちに作り上げてほしいです。
α:Ωとは20年来の付き合いですが、彼がやや興奮しながらオススメする作品というのは4年に1度程度、非常に稀です。私は普段、京都アニメーションの作品ばかりを見ていますが、これは見ておかなければならない、と立川爆音上映へ2人で行きました。ブラック&クロームのモノクロバージョンでしたが、砂漠とケバい車体、濃淡のハイコントラストが印象的で、出血や砂煙などのエフェクトが車の陰影と合わさると正直何を見てるか全く分からないカットが多かったけれど、とにかくカッコいい画面の連続というのを強く覚えています。帰りの飲み屋、Ωのテンションが高かったので勢いで映画ブログを初めようと言いました。
車で荒野を爆走、フロンティアを超えてまだ見ぬ理想郷を目指すという話の筋は、非常に西洋的、キリスト教的だなと感じます。一方で、少子高齢化(ウォーボーイズの減少)、格差社会、原発事故といった問題と共に2020年東京オリンピック開催によって、AKIRA的な世界観の到来を意識してしまう1人の日本人として「生き残るために大局的な選択」をするといったメッセージは、素直に共感できた作品です。
おまけ
αが『リズと青い鳥』の記事を書いていたので、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』との共通点をぼんやり考えていたけど、これくらいしか思いつかなかった。
語り Ω / 編集 α
引用
・映画
* 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』監督:ジョージ・ミラー 2015
* 『マッドマックス』監督:ジョージ・ミラー 1979
* 『キラーカーズ/パリを食べた車』監督:ピーター・ウィアー 1974
・書籍
* 『AKIRA』大友克洋 講談社 1982-1990
* 『千の顔をもつ英雄(新訳版)』ジョーゼフ・キャンベル著、倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳 早川書房 2015