弾はまだ残っているか『天気の子』
キャラクターについて
映画は陽菜が病室で親を看病するシーンから始まります。本人より先に、窓に反射する透けた姿が映り、作中で彼女が消失することを暗示します。
もう一人の主人公、帆高は離島から家出してきますが、顔中に絆創膏が貼られています。理由は明らかにされませんが、作中で大人に何度も顔を殴られて、最後にはまた傷だらけになる。ということは家出の直前にも大人、おそらく親から暴力を受けていたのでしょう。
大人に楯突いては暴力的に矯正され、しかし結局変われず社会に馴染むことができない。これは帆高の愛読書『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドと共通します。
ホールデンは大人の世界はインチキだと断じ、純粋な子どもの世界を守ろうとしました。見通しのきかないライ麦畑で走り回る子どもたちを、崖から落ちないように捕まえる。そんな人物になりたいと願いましたが、社会から異端者とみなされて入院させられる羽目になります。
帆高もまた大人の世界に馴染むことができません。子どもである陽菜を守ろうと拳銃を発砲したことで警察に追われ、その対極にあるヤクザにもなれず、社会に居場所のない異端者になってしまいます。
ラブホテルで陽菜の裸を見ますが、抱くことはできません。子どもの純粋さを守るため、一線を越えて大人にはなれない。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でもホールデンが売春婦を呼んだものの何もできないシーンがありました。
食事がジャンクフードばかりで美味しそうじゃないのが良いですね。彼らは美味しいものを教わっていないので、ご馳走といえばそれしか知らないのです。『君の名は。』でお洒落なレストランやカフェが出てきたのとは大違いです。
主人公たちの背景はあまり語られないので感情移入できないという感想も聞くのですが、『君の名は。』の子どもたちの影と考えればいいと思います。
都会・地方の出身の子どもである点と少女が巫女である点は共通します。しかし『君の名は。』の瀧は建築学、三葉は巫女の伝統といった先代までの蓄積を受け継ぐことができたのですが、『天気の子』の子どもたちに親はおらず、なにかを継承する機会が与えられません。彼らの背景があまり語られないのは、語るに値するものがないからです。
帆高も陽菜も日の当たる場所に行きたいと語りますが、これは安心して暮らせる状況の事でしょう。雨が降り続いて足元はぬかるみ、確かなものはなく、その日を生き抜くことで精一杯。そういう状況からただただ抜け出したい。
須賀は作中でも言及がありますが、大人になることを選択した帆高です。娘のために帆高を追い出すという大人の判断をし、酒を飲み、タバコを吸って苦悩する大人であることを表現します。擬似的な親として、帆高に何度も大人になれよと言いますが、最後には警察にタックルして帆高を逃がすという大人ではあり得ない行動に出ます。結局変わったのは帆高ではなく須賀であり、作品として子どもの純粋な行動が支持されます。
凪は帆高に女性関係を見せつけるとき、必ず上座に座ります。フットサルコートでは一段上に座って説教しますが、最後には帆高を姉の相手として認め、同じ高さのベンチに座りなおして握手をします。
もろもろのシーンについて
序盤で帆高が、中盤で中学生が水塊に押し潰されるシーンがあります。一見、話の本筋との関係がよく分からない部分ですが、これは前の世代が残した負債のメタファーでしょう。映画で描かれる環境破壊や経済格差などの重圧が若い世代に降りかかるという意味かと思います。
新海誠監督の長編アニメは過去の有名作品のテイストを利用する場合が多いです。『雲のむこう、約束の場所』はエヴァンゲリオンや押井守、『星を追う子ども』は諸々のジブリ作品、『君の名は。』は細田守『時をかける少女』と大林宣彦『時をかける少女』『転校生』。今回は主には『天空の城ラピュタ』ですね。陽菜は親から飛行石のようなものを受け継ぎ、積乱雲の世界へと至ります。主人公の男女が破滅を選択する「バルス」なシーンもありました。水没する世界は『パンダコパンダ 雨降りサーカスの巻』から『崖の上のポニョ』まで、ジブリ作品ではたびたび描かれるモチーフです。
ラストシーンについて
帆高・陽菜の選択により東京が水没するというのはなかなか衝撃的でしたが、それも仕方ないと思いました。負債だけ押し付けて解決する力を与えてくれない大人の世界など崩壊すればよくて、身近で大事な人を選ぶのは当然です。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になぞらえれば、崖から落ちた陽菜を、ただ大事な人を守りたいという純粋さをちゃんとキャッチできたのかなとも思います。
ただ、その後は納得がいかない点が多いです。なぜ2年半後の帆高は罪悪感を感じて大人に謝るのか。僕たちは大丈夫などと言うのか。
帆高が進学する大学のパンフレットにはこうあります。「2000年代以降、アントロポセン(人新世)という言葉が拡がりを見せています。これは我々ヒトの活動が地球に大きな影響を与えていることを表した地球科学に関する造語で、…」この考えに基づけば、人間の活動によって自然のバランスは徐々に崩れて、帆高たちの目の前でついに壊れてしまったのだと解釈でき、現実の環境問題への警鐘ともとれます。しかし、須賀や瀧の祖母は、自然に対して人間は無力で影響を及ぼすこともできないと語ります。帆高は自分たちの選択が世界を変えてしまったと言い、それは天気の巫女の力によるものと考えています。大学パンフレットの内容と矛盾しており、巫女しか自然に干渉できないのであれば、地球科学を学ぶことは無意味です。
もう一点気になるのは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の単行本の扱いです。映画開始から約40分の間になんと5回も登場します(フェリーで1回、ネットカフェで2回、須賀の事務所で2回)。須賀や風俗スカウトなどの子どもを搾取する大人に対して、帆高が不信感を持ち反抗していることを表現していると思われます。5回目の直後、花火大会で晴れ女ビジネスに成功し、以降は大人の力が必要なくなるためかさっぱり出てこなくなります。
最後の6回目の登場は、帆高の大学進学の引越し時です。暗がりの中に置いてあってほとんど判別できず、扱いが極めて小さくなっています。東京を水没させた負い目から、大人への反抗心は無くしてしまったのでしょう。
以上の点を総合すると「帆高と陽菜は東京を水没させる大罪をたまたま背負い、大人への抗弁はできず、自然の気まぐれに任せるほかは償うこともできない」ことになります。この状況のどこが大丈夫なんでしょうか。
帆高が拾った拳銃マカロフは9発装填できるので、2発撃って7発残っているはずです。負債を子どもに押し付けて、のうのうと良い暮らしをしている大人は許せない!最後は暗転してから「ダン!ダン!」と銃声2発、須賀と瀧の祖母にぶち込んで欲しかった。フィクションなのだから帆高は姿勢を貫いて、理不尽な社会に牙を剥くテロリストになって欲しかったです。
まとめ
以前に『君の名は。』について書きましたが、新海監督の次回作として観客を絶望の底に突き落とす作品を期待しました。『天気の子』は『君の名は。』のダークサイドといった趣で良かったです。同じ東京が舞台ですが全くキラキラしていない。見た目キラキラしているのは風俗店のネオンやラブホテルのバスタブという頽廃ぶり。大ヒットした『君の名は。』の次にキワドイ作品を投げ込んでくるのは素晴らしいと思います。
これまでの新海作品で描かれてきたのは「大人になることへの憧れ」でしたが、今回は「大人への怒り」でした。今の大人は子どもに対する責務を果たしているか。そうでなければ子どもが大人になることを拒絶し、世界を崩壊させても仕方ないのではないか。今までの作品にない切り口で新鮮でした。
『天気の子』(2019)に前後して『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)といった貧困、格差社会をテーマにした映画が公開されて話題になりました。これらの映画には、主人公家族は貧乏だけれど仲は良い、生きるために犯罪行為に手を染めるなどの共通点が多くあります。(パラサイトとは大雨・水没も共通します。)作り手は当然主人公たちに共感するように映画を作るわけで、真に悪辣なのは罪を犯した彼らではなく、抜け出せない格差を生み出し、問題を押し付ける権力側だろうと訴えています。
本作の「負債を押し付ける大人 VS 純粋無垢な怒れる子ども」という冒頭の構図は共感できるものでしたが、天気の巫女にまつわるオカルト風味に引っ張られて「気まぐれな自然 VS 帆高・陽菜」と「そのとばっちりを受けた大人」という形で決着してしまったのは残念でした。
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