練りこまれた豊かな荒野『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
砦
冒頭から情報量がすごいです。
双頭のトカゲはスリーマイル島原発事故で生まれた双頭の牛を連想させ、放射能汚染が進んでいること、そしてそれをすかさず口に入れないと生きていけない、過酷な世界が舞台だということを観客に突きつけます。
いきなりの目玉飛び出しショット!嬉しかったですね。1の冒頭、ナイトライダーがクラッシュするシーンで、血走った目のアップになる。本作でも開始早々に出てきて、「間違いなくマッドマックスの新作を観てるんだ!」って気分になりました。
捕まったマックスは背中に屈辱的な入墨を掘られますが、上下逆さまなんですね。輸血袋は足を吊るして使うから。
イモータン・ジョーの登場シーンも良くて、観客には皮膚のただれた老人であることを見せる。妻や側近たちだけが知り得る真実で、ウォーボーイズ達はムキムキの不死身の男だと信じている。途中でネタばらしすると、観客も拍子抜けすると思います。最初から見せることで、ジョーがカリスマ性を維持する為に苦労していることが分かる。
ウォーボーイズの掛け声は「Fucacima,Kamakrazy,Warboys!」これは日本語字幕にはなっていません。Fuckが福島原発事故が発生したためにFucacimaに変わってしまった。俺たちは原発事故くらいぶっ飛んでるという意味でしょう。Kamakrazyはカミカゼ+クレイジーの合成ですね。ウォーボーイズなんてイカれてる、日本は関係ないと笑っていられない。
ぶくぶくに太った女性から母乳を搾り取ってるのもショックなシーンなんですけど、これで家畜が絶えてしまったこと、ジョーが他人を家畜と考えていることが分かる。
水を与えるシーンは漫画『AKIRA』が元ネタかと思います。荒廃した世界で、超人的な男が宗教で支配する。4巻の冒頭とよく似ています。砦の周りに住み着いてるのはミヤコ神殿の周りの集落に似ている。映画ナタリーのインタビューで、ジョージ・ミラー監督は『AKIRA』からの影響について述べています。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」ジョージ・ミラー監督インタビュー (3/3) - 映画ナタリー 特集・インタビュー
往路
フュリオサがガスタウンに向かいますが、東に向かうと言って左に進んでいくんですね。普通は北が上、東が右なのでちょっと変です。理由として思いつくのは二つ。一つは南半球にあるオーストラリアの映画なので、南が上で東は左とした。もう一つは映画の進行方向の話で、洋画だと右に進んでいくものが多いです。2001年宇宙の旅は木星目指して右に進む。アラビアのロレンスも右、最近だとダンケルクも右。右が正、左が反とすると、フュリオサ達は間違った方向に進んでいることを示唆しているのかなと。最後は思い直して右に帰ります。
α:そういえば、アナと雪の女王で、家出したエルサが向かった雪の城があったのも左でしたね。最終的には城下町に戻ってくる話の方向感は似ています。
ヤマアラシのトゲトゲのワーゲンはオーストラリア映画『キラーカーズ/パリを食べた車』からの引用です。この映画観たんですけど、実に変な作品で。まずパリって言ってるんだからフランスの首都だと思うじゃないですか。でもオーストラリアのパリという田舎町が舞台です。(検索してパリ川ってのはあったけど町があるのかは分からなかった。)パリの人たちは通りがかった車を襲って生計を立ててまして、捕らわれた人は逃げようにも暴走族が立ちふさがって逃げられない。住民と暴走族はグルなのかと思いきや、対立していって暴走族が町を破壊する。トゲトゲの車は暴走族の愛車です。
マックスは過去のトラウマから精神を病んでおり、人間性を失っています。スリットから「枷をつけたケダモノ」と呼ばれますが、その通りです。フュリオサに名前を聞かれても答えませんが、信用していないこと以上に、関係を築くことが怖くてできないのだと思います。名前を呼ぶ誰かが死んでしまったら、次は完全に壊れてしまう。
対するフュリオサはイワオニ族に会う時に、顔に真っ黒なグリスを塗りなおします。イモータン・ジョー軍大隊長としての戦化粧ですが、彼女もまた本来の自分ではいられない状況にあります。タールは徐々に薄くなっていき、鉄馬の女たちに再会した時には完全に落ちて、本来の姿を取り戻します。
スプレンディドが身を乗り出すシーンで、いつも涙ぐんでしまいます。生き残るためにスプレンディドが盾になる。その選択に賭けて他の妻たちが必死に支える。彼女を失うことは自分が死ぬよりも辛いのに。
生き残るために大局的な選択ができるか、というのはマッドマックスに共通したテーマであると思います。1作目のラストで、暴走族の残党は自分の足を切り落とすことをためらって、爆死してしまいました。
狙撃のシーンが素晴らしいです。マックスがウォーリグを分捕ろうとしたとき、フュリオサが右耳あたりで発砲する。キーンという、銃声による耳鳴りが表現されます。武器将軍の狙撃シーンでは、自分を殺そうとしたフュリオサに銃を渡して、右肩を貸している。ここでも耳鳴りがしますので、対になるシーンです。命を預けるほど信頼関係が深まっていることが分かります。
復路
ガスタウンの部隊、ポール・キャッツは曲芸師のようでなんとも奇妙です。よくこんなこと思いつくなと思いましたが、1作目を見返すとすでにやっていたんですね。崖から棒高跳びの要領でタンカーに飛び乗るシーンがあります。さすがジョージ・ミラー監督!ブレない男です。
最後の戦闘でフュリオサは気胸になり瀕死に。こんなに地味に死にかける映画を観たことがありません。さすがジョージ・ミラー監督!元医者なのでリアルです。
ここで初めて、マックスは自分の名前をフュリオサに伝えます。共闘する中で信頼関係が築かれたとともに、孤独なケダモノだったマックスの人間性が回復したことが分かります。また輸血によって、復活した英雄マックスの力がフュリオサに分け与えられます。マックスは砦を去りますが、これから襲い来る困難は英雄フュリオサが解決するでしょう。
映画ナタリーの監督インタビューでも言及されている、ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』を読むと、様々な部分が対応していて面白いです。
本作の主人公はマックスではなくフュリオサでしょう。日常的な住まいを出て、門を抜けて境界を越えていく。数々の試練を乗り越えて専制君主を打倒する。再び境界を越えて帰還し、元居た世界に恩恵をもたらす。
過去作ではもちろんマックスが英雄役でしたが、本作では精神を病んでいて、それに振り回されています。選択を迫られるところでは、自分の意志ではなく、死なせてしまった少女の亡霊に誘導される。精神状態を知らないフュリオサ達からみたら、不思議な力で手助けしたり、道を示す思いがけない人物といったところです。これは『千の顔をもつ英雄』における「自然を超越した力の助け」に対応すると思います。「自然を超越した力で助けてくれる人は男の姿をしていることが多い。民話では森に住む小さい人々や魔法使い、世捨て人、羊飼い、鍛冶屋などがいて、姿を現しては英雄が必要とする魔除けや助言を授ける。」マックスは世捨て人ですね。
感想
公開初日に観に行って、文字通り虜になりました。最高なあまり他のアクション映画を観ても退屈に思ってしまうことが半年ほど続きましたが、そんな事は初めてでした。シリーズ過去作の要素をちりばめつつ、性差別や過激派の自爆テロといった現代的な問題をえげつない形で取り込んで、真摯に向き合っている。倫理観はぶっ壊れて、危うく成立している世界観やシーンの作りこみ。今回の記事を書くのに見返しても発見があり、なんて上手いんだろうと驚きます。
続編の製作は決定していますが、難航しているようです。ジョージ・ミラー監督、御年73歳ですから、なんとか元気なうちに作り上げてほしいです。
α:Ωとは20年来の付き合いですが、彼がやや興奮しながらオススメする作品というのは4年に1度程度、非常に稀です。私は普段、京都アニメーションの作品ばかりを見ていますが、これは見ておかなければならない、と立川爆音上映へ2人で行きました。ブラック&クロームのモノクロバージョンでしたが、砂漠とケバい車体、濃淡のハイコントラストが印象的で、出血や砂煙などのエフェクトが車の陰影と合わさると正直何を見てるか全く分からないカットが多かったけれど、とにかくカッコいい画面の連続というのを強く覚えています。帰りの飲み屋、Ωのテンションが高かったので勢いで映画ブログを初めようと言いました。
車で荒野を爆走、フロンティアを超えてまだ見ぬ理想郷を目指すという話の筋は、非常に西洋的、キリスト教的だなと感じます。一方で、少子高齢化(ウォーボーイズの減少)、格差社会、原発事故といった問題と共に2020年東京オリンピック開催によって、AKIRA的な世界観の到来を意識してしまう1人の日本人として「生き残るために大局的な選択」をするといったメッセージは、素直に共感できた作品です。
おまけ
αが『リズと青い鳥』の記事を書いていたので、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』との共通点をぼんやり考えていたけど、これくらいしか思いつかなかった。
語り Ω / 編集 α
引用
・映画
* 『マッドマックス 怒りのデス・ロード』監督:ジョージ・ミラー 2015
* 『マッドマックス』監督:ジョージ・ミラー 1979
* 『キラーカーズ/パリを食べた車』監督:ピーター・ウィアー 1974
・書籍
* 『AKIRA』大友克洋 講談社 1982-1990
* 『千の顔をもつ英雄(新訳版)』ジョーゼフ・キャンベル著、倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳 早川書房 2015