数学的帰納法で証明される境界の彼方 栗山未来・北宇治高校 吹奏楽部・京都アニメーションの「ずっと」
リズと青い鳥の記事を更新してから約一年以上経ってしまいましたが久々の更新です。
これまでは山田監督作品について書いてきましたが、劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデンの公開も間近!という事で、ヴァイオレットの石立太一監督の初映画監督作品である「劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE-」 から書き始めたいと思います。
境界の彼方はハミ出し者同士が出会い問題を解決していきますが、京アニの他作品 中二病でも恋がしたい!や聲の形、小林さんちのメイドラゴン 等々、京都アニメーションの通奏低音とでもいえる内容であり、ファンとしてはとても楽しめる内容でした。
ただヴァイオレットと比較すると一般的なレビューは賛否両論ですね。確かにTV版からして設定やセリフ、各キャラクターの行動まで把握するのは難しいお話でした。さらに劇場版ではメガネで人気のあるヒロインの栗山未来が記憶を無くしています。悪の真打ちが弥勒というのも想像を超えてはいません。特にアウトローな二人が反発しあいながらも支え合って幸せになろうとする流れはTV版の韻を踏んだような展開だった事もあり、一般的には少し退屈さを感じされる所があるのかなと想像はできます。私も初見では「何故、記憶を消してまで劇場版で似たような話しを繰り返したんだろう?」と疑問が残ったのは事実です。
でも、そのそんな「繰り返し」が重要という「劇場版 境界の彼方 -I'LL BE HERE-」の一つの見方を紹介します。
なぜ栗山未来は記憶を失う必要があったか?
「繰り返し」の説明の前に、栗山未来が記憶を失った点を考えてみます。劇中で記憶が戻る事はなく、家族にまつわる子供の頃の記憶や栗山家が受けてきたひどい仕打ちと「不愉快です」という口癖のみで、最後の最後まで過去篇の内容を思い出す様子がありませんでした。じゃあ、過去篇は何だったんだ、劇場版は同じような話しを繰り返しているだけなのか?
そんな設定の中、あえて今回「記憶を失わせた上で覚えていること」、改めて強調されているのは何かというと、「過去から現在に渡り背負ってきた不幸な血の運命」です。
ここからは私の想像ですが、その栗山一族の「不幸な運命」をお話しの核として持ってくる際に、TV版では実質死んでしまった栗山未来の次の転生体、つまり栗山未来を生まれ変わらせて赤ちゃん〜子供から高校生までの成長を描きつつ劇場版の尺の都合で辻褄を合わせて収めるのは難しかったのだろうと想像します。
そのため「生まれ変わりの代用」として「記憶を失う」必要があったのではないでしょうか。過去編と未来編の未来ちゃんは、OSは同じだけど実質的には血の繋がった転生体や生まれ変わりと考える事にします。スマホのメモリからデータを消して最新OSを入れ直したら形は同じでも実質的には違うスマホとなってしまう事に近い状態とでも言いましょうか。
数学的帰納法による幸せの証明
それでは「生まれ変わり」をさせてから、なぜまたTV版と似たような話しを描いたのか、それは「また生まれ変わっても不幸な栗山未来を神原秋人の愛で救う」という事を改めて描きたかったからだと考えます。同じような状況に陥っても「繰り返し」救う事が重要なんです。これは数学的帰納法のような証明*2をしているのではないかと思うのです。
TV版以前 : N-1回目以前の転生 不幸せ(不愉快)
TV版または劇場版 過去篇 : N回目の転生 神原秋人によって幸せになる
劇場版 未来篇 :N+1回目の転生 神原秋人によって幸せになる
さらに未来:N+2回目以降の転生 神原秋人によって幸せになる
ポイントとして神原秋人は「死にたくても死ねない・不死身」という設定がここで効いてきます。今後栗山未来が何度生まれ変わっても、これからは神原秋人によって永久に幸せになる事が証明された映画なのです。尊い・・・。
不幸な運命を背負ってきた主人公とヒロインが共に「永遠に」生きていく*3。言葉にするとこっ恥ずかしいだけれど、どストレートに尊い話ですね。二人の幸せをずっとにするためN+1回目を劇場版の尺で描く必要が出てきた。TV版の栗山未来がそのまま劇場版に出てきてもずっと(数学的帰納法)の証明にはならなかったはずです。そこで劇場版という尺も考慮し、論理的に導き出された「記憶を失う」設定だったのではないでしょうか。
歌詞も"ずっと、いつまでも"
ここで主題歌 会いたかった空の歌詞を一部引用します。
ずっと待っていた景色
(ずっと) ずっと (ずっと) 共に生きて行こう ずっと愛のままで・・・
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/minori-chihara/aitakatta-sora/
”ずっと待っていた”というのは、現在の栗山未来だけでなく、過去から現在にかけて不幸の運命から抜け出せなかった栗山未来の事でしょう。
さらにサビに入ってから”ずっと” “共に”というフレーズが繰返しでてきます。生まれてから死ぬまでの現世の事ではなく、来世もその次も未来永劫 秋人と愛で共に生きようという歌詞ではないでしょうか。
(余談)現在の幸せを描くED後
栗山未来の「未来」が永遠に救われてエモいという事を説明してきた訳ですが、「過去」の呪いを断ち切って「未来」永劫が救われるとしても、今「現在」の未来ちゃんには将来の転生体は本来関係無いわけです。今現在の未来ちゃんはどうなんだ?幸せになるんか?といった声に応える最後のシーン。
過去から続く、永遠の不幸に捕らわれて足踏みしていた状態を表現する踏切。秋人と二人で運命を乗り越えていく事が示唆されています。
最後の未来ちゃんの満面笑顔のカットがとても良いんですよね。リズと青い鳥でいう所のハッピーアイスクリームのような。これを見るためだけにTV版〜劇場 境界の彼方 - I’LL BE HERE - までをもう一度見たくなってきました。
響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレでのずっと
数学的帰納法のような証明がされているかな?というお話が他の京アニ作品にも出てきます。 劇場版 境界の彼方 と同じく花田十輝さんが脚本をされた 「響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ」です。
注目してもらいたいのは作品のタイトルです。結果的には全国優勝したわけでもなく、地方大会で駄目金だった、主人公の久美子もまだ2年生で、これから3年生なのに「なぜフィナーレ」と思いませんでしたか?
かなり個人的な見解ですが、この映画は北宇治高校が「頑張り続けられる」というカルチャー・組織・システム構築が完成(フィナーレ)した事を説明した映画だからなのではないでしょうか。
1年目は、はじめこそ滝先生に焚き付けられて頑張りはじめたでしたが、2年目は自発的に部員が鼓舞し、問題を抱えたり斜に構えた部員が入っても、いつのまにか本気にさせる実力勝負のシステムも安定稼働。久美子と奏のやりとりでは、まるで一年前の久美子自身を見ているような繰り返しの構造となっています。エンディングでは3年目の久美子部長が出てきますが、北宇治高校 吹奏楽部は来年もその次の年も、ずっと終わる事は無く「頑張る」のだろうと想像させます。
栗山未来が永遠に幸せになる構造に近いと思うのは自分だけでしょうか。
おまけ 京都アニメーションのずっと
そんな誓いのフィナーレの制作終盤は、京都アニメーションやアニメーションDoのスタッフが1つのスタジオに集まって高揚感を持って制作をやり遂げたという事を京都アニメーションのTweetで知りました。
【#京アニ映画year】
— 京都アニメーション (@kyoani) April 19, 2019
「劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~」には、京都アニメーションとアニメーションDoの映画制作における"いま"を余すことなく詰め込んでいます。映画を通して、私たちの想いを感じていただければ幸いです。https://t.co/LM57JyLVS9 pic.twitter.com/1NJPLnNszt
このTweetを知ってからというもの、誓いのフィナーレでは「京都アニメーション」がアニメ制作に対する「誓い」を北宇治高校 吹奏楽部のキャラクターたちに代弁させているようにも感じるのです。
ファンとしてはただ待つことしか出来ないのですが "ずっと、いついつまでも” 京都アニメーションの作品と向き合って行きたいと誓って、この文章を締めたいと思います。
引用
文章 α ( mirrorboy )